5年後のメディアを考える(2005-04-04)

ぼんやりと朝まで生テレビを見ながら、考える。

たまたま、テレビのスイッチを入れて、チャンネルを切り替えていて、朝まで生テレビをやっているのに気付き、そのまま見ていた。ライブドア社によるニッポン放送買収が話題に上っており、私はその問題に興味がある。熱心な視聴者ではないが、興味深い話題であれば、明け方までおつきあいすることがある。

いくつか感じたことがあったので、書き留める。熱心に見通した訳ではなく、ながら視聴であったために、論議の全てフォロー出来た訳でない事をお断りしておく。私自身が気になっていた話題についてのみ触れる。すなわち、

  1. 堀江氏の株取得の手法を含めた、彼自身に対する好き嫌いの次元の問題。
  2. インターネットの功罪。
  3. メディアのあり方について。

以上、三点である。

人の家に土足で上がるという論議

ディスカッションに参加しているメンバーの中に、「どうしても堀江氏を許せない」というレベルで興奮している人が居た。敵対的な企業買収という手法に対する是非である。裁判所の判断が既に下されており、法律的に問題がないという点では異論は出ていなかったように思う。デーブ・スペクター氏が再三に渡り指摘していたのは、その倫理的な問題点である。彼は、「人の家に土足で上がる」無礼者、という論調であったように思うのだが、私はアメリカで二年ほど生活した経験の中で、アメリカ人に土足という概念がないということに気付かされた。職場の天井の蛍光灯が切れて、修理にきた係員は、靴を脱がずに私の仕事用のベンチに上がった。日本人のメンタリティであれば、靴を脱いで、靴下で上がるところだろう。逆に、彼らには、靴を脱ぐことに対する抵抗感がある。靴下は一種の下着であり、靴を脱いで下着で机に上がることは、むしろ不潔であるという感覚である。アメリカ人のスペクター氏が盛んに、土足、土足と連発することに、なにやら違和感を感じた。ちなみに、私達が米国で住んでいたアパートの玄関に段差が無かった。靴を脱ぐ場所がないのである。

生番組ということで、時々はいるCMの間に、色々とやりとりがあるのだろうと思う。誰かがスペクター氏をなだめたに違いない。好き嫌いの論議は不毛である。私は、メディアを握るフジサンケイ側の世論誘導の一部のように感じた。

インターネットは規制できない

「ネットと放送の融合」という、堀江氏が掲げたほとんど唯一の買収の目的のなかで、ネットの功罪に論議が及ぶ部分があった。ネットを規制するべきだという論議の根拠として、2ちゃんねるを引き合いに出す人は、おそらくネットがなんたるかわかっていないに違いない。情報の受け手のリテラシーが求められる。従来のメディアでは、送り手、つまり、放送局や新聞社が情報の質を保証しているが、ネットに流れる情報は誰もその質を保証しないという訳である。その根拠が2ちゃんねるの匿名書き込みというのは、余りに極端だ。現在あるマスコミが、情報の根拠について、誠実に示しているとも思えない。ニュースにはソースがあるはずだが、記事の中に情報の根拠を示していないものをしばしば見かける。「おそらく、警察の発表なのだろう」といった調子で、私は、例え大手マスコミの提供する情報でさえ、その根拠が何であるか考える。

定期購読というぬるま湯に浸っている新聞社や、スポンサーの意向を無視できない民放放送局、政治家に首根っこを押さえられているNHKの情報がどれほど信頼できるのか。多くの視聴者、新聞読者が、情報を盲信するという前提で、情報を垂れ流し、信憑性を検証し得ない現在のマスコミに、2ちゃんねるを批判することが出来るのか。

World Wide Webは、その性質上、情報の内容を規制することは不可能である。結局の所、情報の受け手のリテラシーを高めることが、情報の質を高める方法である。(そういった認識を持っているのはオープンソース氏と司会者のみだったかも)現在の既存メディアは、受け手の質を極めて低いところに設定しているように見受けられる。ゆえに、やらせが横行する。

近未来のメディアのあり方について

こういった論議を、小耳に挟みつつ考えたことである。堀江氏は5-10年後に今のかたちのテレビは無くなっているだろう、というようなことを言って物議を醸している。また、メディアを買収した目的が極めて漠然として、具体的な計画は何もないのではないか?という疑問。確かに、放送局を買収して、何をやるつもりなのか、堀江氏は明確なビジョンを描いていないように思える。

しかし、自分自身の5年前を考えてみる。5年前、買ったパソコンには、10GBのハードディスクと64MBのメモリが装着されており、モデムでインターネットに繋いでいた。インターネットは、ピーヒャラヒャラと繋がるもので、ネットに繋がっている間は電話が使えなくなった。さらに5年前、CPUのクロックは25MHzで、内蔵ハードディスクは230MB、メモリは16MB、私は米国でCompuServeというネットワークに繋いでいたが、心許ないものだった。

いまや、ハードディスクの容量、メモリサイズは5年ごとに10倍以上となり、通信速度は当時の数百倍となった。そして、劇的にコストが下がった。さらに5年後、インターネットに何が起きているか、夢物語の次元を越えて予測するのは難しい。もし堀江氏が5年以内に、こういったことをやります、と言ったところで、ネットの発展はその想像をはるかに超えるに決まっている。ビジョンを示さないのが正解だろう。

およそ20年まえ、家庭用ホームビデオが一般化した時に、テレビ局が何もしなかったのは何故か。録画して番組を見る時にコマーシャルは早送りされる。その時点で、従来の放送形態の崩壊は始まっていたと思う。ネット接続が一般化し、情報を受け取る手段として、ネットの優位性は明らかと思う。松井選手のホームランを見たい、と言う希望を叶えるために、視聴者はリモコンを片手にチャンネルサーフィンを強いられる。そして、スポーツニュースの時間にテレビを見られるとは限らない。ネットなら簡単である。MLB.comを探せばよい。新聞各社がウエブサイトを持っている。ウエブサイトを商売上有意義に使っている新聞社は皆無だ。どう考えても、紙を売って利益を上げている自らの首を絞める行為である。彼らの工夫と言えば、著作権云々の恥知らずな警告を並べるだけである。ネットを有効に利用するアイディアを持たぬまま、風潮に流されて、それらしいウエブサイトを持っているだけではないか。

テレビ番組のネット配信は別段難しいことではないだろう。タイムスケジュールに支配される電波による番組配信に比べ、視聴者の便宜を考えると、ネット配信のメリットは大きい。コマーシャルの入れ方も、より柔軟におこなうことが出来るはずだ。視聴者、スポンサー双方にメリットがある。放送を提供する側が決断すれば、おそらく10年後に放送は通信に飲み込まれていることだろう。

デジタル化による著作権保護は、別の問題として解決するべきだ。やり方はいくらでもあるはずで、技術は顧客の便宜を図るために用いるべきだ。従来のかたちに拘ったコピーコントロールCDの失敗からメディアは多くを学ぶべきである。

技術を後ろ向きに使うのは止めてほしい。私は、テレビ局が一つホリエモンのものになったところで、何も困らない。むしろ、何か新しいことが起こると思って期待している。