このページのもくじ

  1. 携帯電話考
  2. 馬鹿になる道具
  3. オフラインになる恐怖感と追いかけてくるもの
  4. 距離感の崩壊
  5. 内と外

携帯電話について、想像する。

携帯電話考

思いつくままに並べてみた。

年に二度ほど、家族揃っておいしいものを食べに出かける。ボーナスを当てにして外食するのだ。今日がその日だった。たまに外食するときは、とにかく安いところを選ぶが、この日はいつもより出費が増えることは覚悟の上で、ジョギング中に見かけた焼き肉屋に行くことにした。自宅からさほど離れていないので、自転車で出かけた。ちょうど夕食時で混雑しており、店員は、40分ほど待ち時間があるからどこかで用事を済ませていたら良い。電話で呼ぶから、と言う。たいていの人は、同じ敷地内にある古本屋で時間を潰すらしい。電話で呼ぶというのは、携帯電話で呼び出してくれるという意味だろう。しかし、私たちは携帯電話を持っていないから呼んでもらえない。

では、どうしたら良いのか。ポケットベルのようなものを渡してもらえば良いのか。携帯電話を持っていない、というと、たいていの人はちょっと驚く。いや、別に、40分後にまた来るから。それだけの話なのだ。その後にもう少しだけ待たされるかもしれないが、要するにテーブルについて、焼き肉を食べられればそれで良い。携帯電話で呼んで貰ったからといって、肉の味が変わるわけではない。勘定が安くなるわけでも無い。40分後に空くであろうテーブルに着くのに、携帯電話はさほど関係ない。

ちょっとした事件の思い出話。17年ほど前のこと、梅田で待ち合わせをした。夕食に誘って、阪急梅田駅から出て直ぐのところにあるたばこ屋の前で5時半に待ち合わせ、という約束だった。当時、連絡を付けるためにポケットベルを持ち歩く人がいた。携帯電話はあるにはあるが、極めて高価な上に持ち歩くには無理がある大きさだったから、移動式電話としては車載電話(*1)の方が一般的だったと思う。もちろん、私はそのような物と縁がなかった。当時、さまざまな機能をもった留守番電話が登場しており、一人暮らしを始めて、私も手に入れた。いや、この事件をきっかけにして手に入れたのかもしれない。外出先からメッセージを聴くことが出来るような仕組み。メッセージを受けた時間を自動的に記録するような仕組みもあった。

私は阪急梅田からJR大阪駅に向かう途中、横断歩道手前のたばこ屋の前で約束したつもりで居た。相方は阪急から阪神梅田に向かう途中のプロムナードのたばこ屋の前で待っていた。数百メートル離れており、見通しも利かない。当然会えない。待ち人は来なかった。私は経験的に、待ち人に会えない時はじたばたせず、信じている場所で待つのが最上の方法と思っていた。結局、5時間ほど待って、諦めて自宅に戻ったところで連絡がついた。携帯電話があれば、電話して、「おい、いまどこ?」と会話すればそれで済みそうだ。今や、待ちぼうけという言葉は死語になりつつある。

有名な待ち合わせ場所にたむろする人々は、かつてのようにきょろきょろしながら人を待つようなことは無い。携帯を弄りつつ、人を待つ。暇つぶしをしているのか、それとも、お互いの現在位置をメールで知らせあっているのか。

ある時間に、余り良く知らない場所に出向いて人と待ち合わせるというのは、かなり高度な技術が必要である。携帯電話に慣れているひとは、そういったトレーニングを受ける機会に恵まれない。待ち合わせする相手が常に携帯電話を持っているとは限らない。信じられないだろうが、私は持っていない。私の友人でも、持っていない人が数名居る。携帯電話が何とかしてくれることもあるだろう。結局会えずに終わりそうなら、携帯で別のともだちを呼び出せば済むことだ。

*1
その頃、会社の重役をしていた私の父は、お抱え運転手付きの車載電話付き社用車に送り迎えされていた。実際には電話は滅多に掛かって来ないが、掛かってくる時は工場で事故が起きた時で、車載電話には良い印象が全くないとのこと。ちなみに、父もいまだに携帯電話を持っていない。

馬鹿になる道具

取りあえずつじつまを合わせるのに、携帯電話は最適の道具である。但し、それはいつでもつながるという前提があってのことである。電車の遅れは遅刻の言い訳になるらしい。延着証明を貰えば良い。携帯電話が繋がらないというのも、さまざまな言い訳に使えるのではないか。携帯電話を持っていない、と聞いて、真顔で「信じられない」という人がいる。「ぼくの彼女が、信じられないといっていました。」と、真顔で言う同僚もいる。

色々なモノ付き携帯(電話)がある。テレビも見られる。音楽も聴ける。写真も撮れる。クレジットカード代わりになる。逆に、携帯電話に付けられない物は廃れる。そういう時代だ。先ず携帯電話に付けられるかどうかを考え、付けられない物は諦める。腕時計を持っていない人が多い。携帯電話を時計代わりに使う。

人の話をまじめに聞く必要がない時代である。適当に頷いておいて、後で確かめれば良い。些細な下らないことでも、携帯メールは答えてくれる。答えてくれるのは携帯ではなく、ラインの向こう側にいる几帳面な友人なのだが、何人かの几帳面な友人は携帯電話のネットワークに付いてくるオマケみたいなものだ。ずぼらな人にとって、几帳面でいちいち返事をくれる友人は付加価値が高い携帯電話の機能の一つである。

携帯電話の手軽さは、中毒性をもつ。人は一息つくためにポケットから携帯電話を出して、開いてみる。きっと、着信記録か何かを確認しているんだろうと思う。ちょっとした時間があれば、携帯を覗き込む。一頃減っていた車の運転中に携帯を使う人が、最近また増加傾向だ。バイクで通勤していると実感する。妙にのろのろと走っている車の多くは携帯電話を弄りながらの運転だ。危ないっていうのに。自転車にまたがりつつ、片手運転で携帯を操作している人も多い。危ないと思う。乳母車を押しながら、子どもを後部座席に座らせて、子供たちを砂場で遊ばせておいて、自分はベンチに座って携帯電話に熱中している。危ないと思う。即時性は認める。タバコと一緒だ。しながらは止めよう。ちょっと立ち止まって、安全を確認して、そこが携帯電話にうつつを抜かすのに適した場所であるかどうか、確認してからやればよい。

将来、人前で携帯を弄ることが下品と言われる時が来るに違いない。携帯を捨てよう、というブームがやって来るだろう。私はそう信じている。

オフラインになる恐怖感と追いかけてくるもの

私は携帯電話を持っていないが普通の生活を送っている。

子どもが被害に遭う事件がいくつかあって、その地区で児童生徒に携帯電話を持たせることが話題になった。「携帯電話を持っていないなんて信じられない」というジェネレーションが存在し、「子どもさんに何かあったら心配ではありませんか?」と防犯上の携帯電話の有効性が時々話題にされる。

防犯に携帯電話が役に立つのは、子どもが電話を掛けようと思い立ち、かけている余裕がある時に限られる。迷子になった時が典型である。しかし、迷子になる心配のある子どもに携帯電話を持たせて家から送り出す親の気が知れない。あとは、実際に事件に巻き込まれてから、間抜けな犯人が携帯電話の扱いを誤った場合。先だって、大金持ちの令嬢が誘拐されたケースは極めて特殊で稀な例だろう。

子どもが巻き込まれる事件の圧倒的多数に対して、携帯電話は余り役に立たないと思う。常に繋がる状態で居られる、というのが携帯電話である。持っていることでネットワークにぶら下がり、オフラインになることが無い。基地局か何かでトラブルがあれば別だが、携帯を持っている人がどこかに繋ごうとして電源を入れると繋がる。また、一方で、意図しないラインが繋がることが危険な状況をもたらす可能性もある。

オフラインになることを恐れるのは、携帯に対する依存の典型的な症状の一つだ。同僚が携帯電話を新調した時、機種を切り替える手続きに数時間かかり、その間携帯を使えない状況になったという。それは彼にとってちょっとしたスリルだったらしいのだ。彼はそれを真顔で言う。私はその深刻さを想像する。米国で生活していて、帰国直前に妻がクレジットカード(家族分)を紛失し、米国で1ヶ月間クレジットカード無しで過ごしたこと。あるいは、数時間、ゴムの筏で太平洋を漂流するようなものだろうか。

娘を連れてアイドルタレントのコンサートを聴きに行ったことがある。大坂城ホールの中は、独特の雰囲気が漂っていた。聴衆が独特なのだ。デビューから10年余り経過し、ファンも熟成されている。ずっと「追っかけ」ている人たちが醸し出す独特の雰囲気。ショウが始まる前に、タレントが呼びかけた。「携帯電話の電源を切ってくださいね」。当たり前のことのようだが、実は電源を切らない人が多い。ついうっかり切りわすれるのではない。オフラインになるのが怖いのだ。この期に及んで、年に一度のあこがれのスターの公演、僅か2時間かそこら。それでも携帯の電源を切れない人たちがそこに居た。

距離感の崩壊

人間関係の距離感、といっても、携帯世代の人には何のことか分からないかもしれない。何か縁があって人々は出会い、そして、関係を育てる。人間関係は育てるものなのだ。私の物心がついた頃、わが家には電話が無かった。アパートの三階に住んでいて、二階の隣人に呼び出してもらっていた。当時さまざまな書類には氏名、住所の以外に、電話(呼び出し先)を書く欄があった。その後に切り替え電話、というものになり、私が小学校に通う頃、わが家にも電話がついた。電話は一家に一台で、友人に電話をすることは、家族の誰かと電話で話すことに他成らなかった。したがって自由に電話をし合えることは、相当に親密な間柄であることを意味していた。そして、そのレベルまで達するのに、さまざまな複雑な過程を踏んでいたはずである。

名簿を手に入れたおせっかいな人々から電話が掛かってくる。ちょっと前に、彼らはより礼儀正しかった。見知らぬ私と何らかの関係を築こうとする努力が感じられた。最近掛かってくる電話はただのおせっかい野郎である。こちらの都合を何も聞こうとせず、迷惑だというと怒り出す。聞きたくないといって切ると、(以前は掛け直してくることは無かったのだが)掛け直してきて、折角電話しているのに勝手に切るとは何事だと怒り出す。袖擦り合うも多生の縁というではないですか、などという。袖擦り合ってない。あんたが名簿を見て勝手に電話してきたのだ。

彼らは距離感を失っている。私は距離感を敏感に感じ取る。全く見も知らぬ不動産業者に、何度も立て続けに電話を掛けられると、恐怖を感じる。申し訳ないが、私はあなたと電話で話したくないのだ、という返事に、掛けた側は誠実に応えなくては成らない。その関係が崩れると、電話というのは一種の凶器と成りうる。

子どもに携帯を持たせること。それは親の携帯依存を子どもに押し付けているだけではないか、と自問してみることだ。子どもに携帯を持たせることは親の自由だ。それによって、ゆがんだ世間との関係の中に無垢な子どもを引き込むことになるかもしれない。子どもは拒否できない。冷静に考えて、親は自分と携帯電話、そしてそのネットワークのとの関係を正常に築くことが出来ているかどうか、判断するべきだ。携帯ネットワークの中にいる自分と、それを取り外して外にいる自分、二つの姿を均等にイメージできるだろうか。

その上で、子どもをそのネットワークの中に引き込むことの功罪を冷静に判断するべきではないか。

内と外

40分の待ち時間を潰すために焼き肉屋の外に出た。店の前で少女が電話で話している。「で、何やねん」「それがなんだっていうねん」「こっちのせりふやわ」「いわれたないわ」「いいかげんにせや」「いいかげんにせいゆうとるやないか」「おまえ、なにさまやねん」。

下らない小さな機械を顔の左側に貼り付けて、彼女は凄んでいる。アンテナの向こうとけんかをしている。まるで、相手が目の前に居るかと錯覚するようなリアルさである。従来、家の中の個室で起きていたことを、携帯電話は世界中のあらゆる場所(圏内)に引きずり出した。全く恥じらうこともない。電車の中で化粧する様なものだ。彼女の個性なのか、携帯電話ネットワークの特性なのか。その両方かもしれない。

依存せずに済むなら、それに越したことはない。私は要らぬ。親から進んで子供たちに持たせるつもりもない。近い将来、携帯電話万能の世の中に対する反動が起きると思う。これだけ携帯電話にさまざまな機能が付加されて行くのは、企業が儲けるためである。それらが必要かどうか、疑問を抱く余地さえ与えず、ユーザーたちは携帯電話を使い、振り回され、利用料金を振り込む。ユーザーを携帯依存の状況に置くことが企業の目標である。

結局、私たちは一旦自宅に戻り、その日が返却期限となっていた本を集めて図書館の時間外窓口に返しに行って、それから焼き肉屋に戻るとちょうど40分経過していた。それから待ち合いで10分ほど待って、テーブルに案内された。


携帯電話を持たずに生活することがモダンで賢い生き方としてもてはやされるだろう。私は常に流行の最先端にいるのだ。持っていない私の携帯電話に関する感想。